こたつモラトリアム

できることなら永遠にここで暖をとっていたい

目の前の生活と戦いながら、際限の無い社会問題を考える

 

社会問題について自らの意見を表明する人が、私のアンテナの届く範囲で増えている。

同世代の友人も、私が好きなミュージシャンも、SNS等を通して社会問題に言及しているのが、最近よく目に付く。著名人の政治的発言の増加は、私以外にも感じている人が多いのではないだろうか。終いには、「著名人が政治的発言をするのはアリか?ナシか?」なんて事まで議論に挙がる次第だ。ナシなわけねーだろ。

やはり、こういった傾向の変化は、新型コロナウイルスの流行をきっかけとして起こったと思う。

政権への不信感など、それまで「社会の」問題として遠くにあると思っていたものが、自らの生活にも影響を及ぼすようになった。社会問題を考えるきっかけとしては、十分だろう。かくいう私も、新型コロナウイルスの流行を境として、それまでよりも積極的に情報を集めるようになった。

 

 

ただ、実際に社会問題について調べ、考えようとしてみると、その難しさを痛感する。もちろんそれは、内容の難しさ・答えの無い問いの難しさでもある。しかし、私が最も困難であると感じる要因は、内容的なものではなく、日々絶えること無くやってくる生活の中でそれを考えないといけない、「時間的な難しさ」である。

 

私たちは、検事長の定年延長について考える時、大抵の場合は、今日の晩ごはんの献立にも同時に思いを巡らせないといけない。白人警官が黒人男性を圧迫死させた事件について調べている間も、大学の課題の締め切りは刻一刻と迫ってくる。将来どこに就職して、どうやって生きていくのか不安になりながら、エコバッグを提げて地球に優しく買い物をする。

目の前の生活を生きる事って、本当にエネルギーを使う。そこに社会問題が入り込むスキマなんて、本来存在しないのだ。じゃあ、意見を発信しているあの人たちは、どうやって社会問題について考えているのか。ねじ込むのだ。生活に無理矢理スキマをこじ開けて、そこに詰め込む。きっと、それしかないんじゃないだろうか。

 

いやいや違いますよ、と。私たちは社会に属していて、社会問題の延長線上には必ず私たちの生活があるから、社会に不都合が生じたら必然的にそれについて生活の中で考えるようになるんですよ、と。そんな風に主張する人がいるかもしれない。

一理ある。しかし、検事長の定年延長と、私の普段の生活とを、一体どうやって結びつけると言うのか。少なくとも私には、その2つを関連づける事ができない。法律には私たちの生活を縛る絶大な力がある。頭ではわかるが、だからと言って、この問題を普段の生活の流れの中で自然に考えるなんて、絶対に無理だ。ちょっと気合を入れてネットサーフィンを始める必要がある。『生活に無理矢理スキマをこじ開ける』と表現せざるを得ない。

 

また、社会に広がる問題には、際限が無い。当たり前だが、その全てを把握し、考えを深めるというのは不可能である。しかし、私たちは社会に属し、様々な人と接する以上、できるだけ多くの社会問題について考える必要に迫られる。なぜなら、どの問題に重きを置いているかは人によって違うからだ。自分にとって大きな問題となっている事が、相手にとっても大きな問題であるとは限らないし、逆もまた然り。私たちは、限られた時間の中で、限りの無い問題について考えないといけないのだ。

 

以上を踏まえるに、やはり、実際に社会問題について考えて自分の意見をまとめるのは、『時間的な難しさ』を備えている。難しいどころか、遂行するのはほぼほぼ無理なんじゃねーか、とも思う。

 

 

 

だからこそ、私は社会問題について自らの意見を表明してくれる友人に感謝している。あなたたちのおかげで、私はそれらの問題を身近に感じる事ができる。

「あいつ、こんな事考えてたんだ」と感じられる事が、どれほどそれらの社会問題と自分との距離を縮めてくれるか。明け方の綺麗な空の写真や、最近見た映画の感想と、全く同じように発信されるそれらの意見が、私の生活にどれほど溶け込んでくれるか。あなたが『生活に無理矢理スキマをこじ開けて』考えてくれた事は、どんなニュースよりも、どんな著名人のつぶやきよりも、確かに私に影響を与えている。本当にありがとう。

 

勘違いしないでほしいが、私は、今まで社会問題について考えていなかった人や、これからも考える事ができない人を責めるつもりはない。上述したように、目の前の生活と戦いながら、際限の無い社会問題を考える事の難しさは、しっかり認識しているつもりだ。

私が言いたいのは、これらを理由にして、意見を表明している人をうとましく思うのはやめてほしい、という事だ。十分に考えを深める事ができていない自分に負い目を感じたり、自虐的になるのは構わない。けれど、その負い目が行き過ぎて、「意見を表明すること」自体をうとましく思ったりしないでほしい。そんな風になっちゃいけない、なるべきではない、と思う。

もし、この傾向がある人がいるなら、今一度、立ち止まって考えてみてほしい。繰り返しになるが、社会問題について考えられないことは、仕方ない事だと私は考えている。どうか、私の友人にとって、「意見を発信しにくい」状況が生まれませんように。

 

 

 

ちなみに、今の私の興味は環境問題、特にペットボトルの利用にある。

ペットボトルのリサイクルにかかる費用が、新品のペットボトルを作る時にかかる費用よりもかなり高いってみんな知ってた?そんなんリサイクルするよりも新品のペットボトル作った方がええやん!業者はわざわざリサイクルせずに新品作っちゃうやん!っていう。大学の授業で聞くまで知らなかったよ俺は。

じゃあペットボトルの飲み物を買う頻度減らした方がいいのかな?でもオランジーナうまいしな。スウェーデンやと既にペットボトルにデポジット制度が適用されてんのか。けど日本で今からデポジット制度を導入しようと思った時にかかるコストも無視できんくて…。ふむふむ…。

みたいな風に、やっぱり際限は無い。でも、この事もどこかで折り合いをつけて、まとめられたらいいな。

 

 

この文章も、誰かにとってのきっかけになる事を願う。