こたつモラトリアム

できることなら永遠にここで暖をとっていたい

人類全員「ルポルタージュ」を読め ~幸せと恋愛とエトセトラ~

売野機子さんの漫画、「ルポルタージュ ―追悼記事―」がとてつもなく面白い。

私が今追いかけている漫画、新しい単行本が出るのはまだかまだかと楽しみに待ちわびている漫画はハンター×ハンターとこのルポルタージュの2つである。

つい最近、3月22日に最新2巻が出た。2巻といっても途中でバーズ誌(3巻分)からモーニング・ツー誌へ移ったのでシリーズ的には5巻目である。

 

 

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ルポルタージュ 1巻 (バーズ)

 

 

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ルポルタージュ ―追悼記事― 1巻 (モーツー)

 


ルポルタージュは一言で言うと恋愛が当たり前じゃなくなった近未来でそれでも恋愛をする人にスポットライトを当てた漫画だ。

近未来といってもそれは2034年で、ネコ型ロボットはまだいないし、今と同じようにテレビではクイズ番組が放送されている。

ただ、クイズの内容は現代とは異なる。

 

『さ~て今日も3組の本物の夫婦に来てもらいました』

『この中に1組だけ恋愛で結ばれたカップルがいますよ~』

と司会が言う。

それに対し、『え~~コレはむずいわ~』とタレント。その様子を見て笑う会場。

 

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そう、この漫画の世界では恋愛をしている方が少数派で、話のネタになるのだ。多くのカップルはマッチングサイトに登録し、合理的に、恋愛を「飛ばして」結婚する。

 

漫画というのはやはり絵やコマ割りがあってこそなので、文章で具体的な内容に触れるのはここまでにするが、興味がある人は是非読んでみてほしい。

おすすめはバーズ版から読むことだが公式っぽい試し読みはモーツー版だったのでそちらのリンクを貼っておく。

 

withonline.jp

 

 

無性に恋愛モノを読みたくなる期間というのが誰にも訪れると思う。もちろん私も例外ではなく、そういう時は図書館やTSUTAYAレンタルに駆け込むのだ。

おかげで恋愛漫画もそこそこの数を読んでいてバクマン。惡の華、ガチ少女漫画のNANA3D彼女、最近ではからかい上手の高木さんかぐや様は告らせたい等々押さえている。漫画ではないが図書館戦争も別冊までしっかり読んだ。

 

 

思うに恋愛モノは所謂「尊い」コンテンツとして消費されるのが最近の傾向である。それは上に挙げた高木さんやかぐや様、さらには急激に増えつつあるTwitter漫画からも明らかだろう。

恋愛を通して揺れ動く登場キャラクターたちの心情、三角関係はもう時代遅れでライバルの存在しない約束された勝利、永遠に終わらない付き合う前の一番楽しい期間、え?こいつらもう付き合ってるの?付き合ってないの?付き合ってるの?付き合ってないの?はよ付き合えや、うーん、胸キュン!wwっていうのが最近主流の恋愛漫画であり、その楽しまれ方ではないだろうか。

わかる。人が幸せそうにしてるの見るのってなんか無性に楽しいもんな。フィクション・ノンフィクション関係無くニヤニヤしちゃうよな。一体あれは何なんだろうな。

 

 

自分はルポルタージュを読んで「尊さ」を感じたことは一度も無い。ニヤニヤが込み上がってくる気配を感じたことも無い。

この漫画の面白さはそういうベクトルじゃない。もっと生身の、冷たくはないんだけど、常温なんだけどずっしりと重みのある、そういった面白さだ。

作者の売野機子さんはかなり慎重に言葉を選ばれているように思う。

この漫画が扱う題材は決して軽いものでは無いし、むしろ毛嫌いする人もいるんじゃないかとさえ思うが、売野さんが書きたいことがキャラクターの言葉を通してすごく素直に入ってくる感じがする。

 

この漫画を読むと恋愛をすること、人と深く関わることで生じる嫌なことが色々見えてくる。頭に浮かぶ。

なのに。それなのに。自分の中に生まれるのは恋愛に対する嫌悪感ではなく憧れである。それはきっと売野機子さんのさっぱりとしてそれでいて鮮やかな言葉選びがあるからだと思う。

 

 

 

最近高校の同級生と集まる機会があった。

そういう場では自然と恋愛の話になったりする。みんな恋愛をしていた。

 新しく恋愛を成就させた人、一つの恋愛が終わってしまった人、来る恋愛に想いを馳せる人。色んな人がいたが多くの人の目には恋愛に対する憧れがうかがえた。

 

今、自分の目もこの相手と同じように輝いているだろうか。自分はまだ恋愛に憧れることが出来ているだろうか。

 

誰かと恋バナをする時、そんなことをよく考える。

相手の口からは色とりどりの私を飽きさせない恋バナが出てくる。

ならばお返しに私も、と自分の引き出しをひっくり返してみるが新しい恋愛話は出てこなかった。

そう、みんな恋愛をしていた。みんなは恋愛をしていた。

 

 

幸せ=恋愛の成就・結婚

そんな風に方程式を立てるのはきっともう時代遅れなんだろう。

親戚なんかに今後の結婚や子育てについての話を振られるのをひどく嫌う同世代も多い。世のおじさん・おばさんたちよ、若い世代との話題として将来の展望を扱うのはもうやめた方がいい。そんなことよりもポケモンGOの話でもした方がずいぶん印象が良いだろう。

 

みんなどこかで感じていると思うが今日本では恋愛周りの価値観が大きく変わってきている。ちょうど今が過渡期なんじゃないかと思う。

女性の社会進出と同性愛の2つの事柄が重なってより複雑な話題になっていると思う。

恋愛に憧れる人、恋愛との距離を曖昧にする人、恋愛を拒む人。

きっとみんな自分と恋愛の関係を一度は振り返っている。

 

私の場合はどうだろうか。私と恋愛の距離感はどれぐらいだろうか。

憧れと拒絶。どちらにも当てはまると思う。揺れ動いていると思う。

きっと決めなくていい。この漫画を読んだ自分なら、どちらに転んでも受け入れられると思う。恋愛に憧れる自分にも、恋愛を拒絶する自分にも、劣等感を感じずにいられると思う。

 

 

たぶん私はルポルタージュに救われている。

 

 

 

 

 

 

 

三次元の映画が見れなくなった

タイトルの通りだ。三次元の映画・実写の映画が見れなくなった。できれば見たくないと思うようになった。

きっかけは4分の3年前ぐらいに見たグレイテスト・ショーマンだ。

 

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これはおばあちゃんと映画館デートをした時に見た。

確かラ・ラ・ランドの制作スタッフが作ったとかそんなのでミュージカル調の映画だった。ちなみにラ・ラ・ランドはまだ見ていない。

 

この映画が面白いか面白くないかはわからないし問題じゃない。

ただ、自分はこの映画を見てる最中になんだか息苦しくなってしまった。今すぐこの劇場から抜け出したいと思った。

なんというか、他人の人生を眺めるのがもの凄く苦しい。特にこの映画は登場人物たちがきれいに幸せになって、きれいに不幸せになって、またきれいに不幸せになって、を繰り返す。波瀾万丈という言葉がぴったり当てはまる。

フィクションだとわかっていても実際に人が演じているのを見るとそこに人生があるように錯覚してしまう。いや、物語の中といえど確かにそこには人生が存在しているので錯覚ではないのかもしれないが…。

 

 

とにかく自分は脆くなってしまった。好きな映画、例えばアヒルと鴨のコインロッカーなんかも今は見たくない。見る気になれない。

なぜこうなったかと言えばおそらく自分の将来に対する不安とストレスが原因だろう。ここ4分の1年ほどの自分に明らかに変化が生じている。違和感がある。

まあ「浪人したが第1志望校には行けなかった大学生」という肩書きはそのような状況になって然るべきな気もする。あまりその辺りのことは深く考えないようにしてるのたが。どんな道を行こうがいずれはこうなっていた気もするし。

 

なんだか暗くなってしまった。要するに今私は自分の人生で精一杯なのだ。

他人の人生で泣いたり笑ったりするなんて今の私には到底難しい。

 

 

そんな私でも見れそうな映画が2つほどある。

1つはアニメ映画だ。

アニメであるとやはり脳がこれはフィクションだと認識するらしく特にストレス無く見れる。夜は短し歩けよ乙女なんかは頭を空っぽにして見れるので非常に良い。

 

もう1つはサメ映画だ。

私は今までサメ映画を見た経験がないのでこれは何の確証も無いのだがサメ映画ならいける気がしている。おそらく私の頭の中でサメが出てくる物語はフィクションであるというイメージが色濃く存在しているのだろう。

サメ映画はコメディ色の強い、いわゆるB級映画も多いジャンルな印象だ。元気になる秘訣はサメにあるのかもしれない。

 

 

惜しむらくはもう夏休みが終わろうとしていることだ。

彼女とMTGを始めたい

 

私には1つの憧れがある。彼女とカードゲームを始めることだ。

もうこの時点で女性陣からの非難の声が聞こえる。いやわかってるんだ俺だって。さすがにこの願いが世間一般の「恋人としたいこと」ランキングの圏外に位置していることはわかっている。

まあ願望だから。相手の都合は度外視でいこう。もし彼女がカードゲームに対して理解ある、乗り気な人物だったならそれは最高 of 最高という話だ。

 

 

高校生の頃から機会があれば「ポケモンカードを一緒に始めてくれる彼女がほしい」ということを口にしていた。結構しっかり憧れているのだ。

元々自分はゲーム大好き人間である。ちょうど高校生の時にシャドウバースが流行り始め、自分もそこを入り口にカードゲームを触るようになり(厳密に言えばマビノギデュエルからなのだがそこは問題ではない)、今はハースストーンに落ち着いた。

 

 

ではなぜ彼女とカードゲームを始めたいのか。答えはわいわいしたいからである。

「彼女とカードゲームをする」ということは自分にとって「彼女と遊園地に行く」ということと同義である。

「彼女と遊園地に行く」とわいわいするでしょみんな。一緒。それと一緒。おいそこブーイングするな。

 

わかってない。「彼女とカードゲームをする」ということがどういうことかわかってないようだな。いいか。今から説明するからオタク特有の早口ボイスで脳内再生してくれ。

そもそもカードゲームをするっていうのは何も2人で紙束で対戦することだけを意味しているんじゃないんだ。決闘の前後には様々なプロセスがあってそれを全部含めて「カードゲームをする」になるんだ。

 

 

まずパック開封がある。カードゲームで最も楽しい瞬間としてパック開封を挙げる人も多い。2人で1箱ずつ買って開封すればさぞ楽しいだろう。どちらが最高レアリティのカードを多く当てるかで競ってイチャイチャしよう。

 

次にデッキ構築だ。カードゲームで最も楽しい瞬間としてデッキ構築を挙げる人も多い。環境の一線級のデッキが作れればいいが、始めたばかりではおそらく資産が足りないだろう。あらゆる勝負事は同じぐらいの力を持つ者とやるから面白い。一線級のデッキ同士で戦うのももちろん面白いが、パワーの低いデッキ同士で戦うのもまた違った面白さがある、というのはカードを触ったことがある人なら納得してもらえるだろう。

 

そしてついに対戦である。カードゲームで最も楽しい瞬間として対戦を挙げる人も多い。最初は効果を知らないカードがほとんどだろう。カードをプレイするたびにお互いに効果を確認する。相手のオメガ・ぽぐちゃむぷなシナジー効果に「なんだよずるいぞそんなのーー」と言い合うのだ。ああ楽しい。楽しくない訳がない。

 

対戦が終わればデッキ調整だ。使用感からデッキの中のカードを差し替えていく。時には相手のカードを借りるのもいいだろう。そしてまた対戦、調整というループに身を任せよう。

 

慣れてきた頃には新拡張が追加される。今度はパック開封の前に事前評価や環境予想ができる。少しずつ公開される情報を元に来たる新環境に胸を踊らせる。やれこのカードが強いだのやれこのデッキが強いだのやいやい言い合う。カードゲームにおいて新拡張発売というのは1つのお祭りなのだ。

 

 

 

ここまで書いたことは全部友だちとできる。友だちとやっても楽しい。結局楽しいんだよ誰とやっても。でもさ。

 

 

クソメガネオタクとやって楽しいことは彼女とやったらもっと楽しいに決まってんだろ!!!!!!

 

 

 

世間ではポケモンカードが大ブームだ。手に入りにくいらしい。このブームが無ければポケモンカードをやりたいが値段も高騰してるらしいし折角だしMTGに手を出したい。俺は彼女とMTGを始めたいよ。

まあでもその前に彼女作らないといけな

 

 

俺 VS ワロタ・草・ww

ワロタと草とww。若者を中心に根強い人気を誇っている言葉だ。

説明する必要もないと思うが、これらは日本での(笑)や海外でのLOLと同義であり、おもに文末に置いて話者が笑っていることを表す。

元々はインターネットの匿名アカウント等で使われる印象だったが、最近は現実世界の会話や実名アカウント、所謂リア垢でもよく使われている。実際私もTwitterを眺めているとよく目にする。私の周りでは草が一番人気でwwは下火である気がする。

 

はっきり言ってダサい。故に私はあまり使わない。

勘違いしないでほしいのだが私はワロタと草とwwがダサいと言っているのではない。ワロタと草とwwを使っている人間がダサいと言っているのだ。

今回は見過ごされがちな私たち人類とワロタ・草・wwの関係について一石を投じようと思う。

 

 

 

あなたは自分とワロタ・草・wwではどちらが強いと思う?自分とワロタ・草・wwではどちらの方が立場が上だと思う?

 

昨今のワロタ・草・ww文化の普及を見るに、多くの人がワロタ・草・wwを自分より下の階級にあるものと捉えているのではないだろうか。すなわちワロタ・草・wwなら自分でも使っていい、これなら気軽に使えると多くの人が思ったことにより、これらの言葉はここまで広まったのではないだろうか。

恥ずかしながら私も少し前までそう思っていたが、冷静に人間とワロタ・草・wwの関係を考察するとこれが誤解であるように思えてきた。ワロタ・草・wwは決して気軽に使える言葉ではない。

 

私たちの多くはワロタ・草・wwを使う存在ではなく、ワロタ・草・wwに使われる存在である。背伸びをして柄にもないようなおしゃれな服を着ている人を揶揄するとき「服に着られている」と言ったりするが、あれと同じである。ファッションショーで見れるような服はファッションショーに出れるような人が着るから映えるのだ。多くの人間はワロタ・草・wwが持つ本来の魅力、自分自身を含めて社会を小馬鹿にするあのニュアンスを十分に引き出すことができない。

「~ぜ」という語尾にも通じるものがある。あれは漫画の中で「~ぜ」が似合うキャラクターが言うからかっこいいのだ。現実で学生ヤンキーが「~ぜ」を使っていたら「あらあらー背伸びしちゃって可愛いなーもう」とか思うだろう。「~ぜ」が堂に入るのは哀川翔あたりからである。私たちの多くは「~ぜ」を使うことに抵抗を感じるが、これは「~ぜ」が私たちより上の階級に存在し、私たちが「~ぜ」の似合う階級に達していないからだろう。

 

 

ではどんな人ならワロタ・草・wwが似合うのか。

私には思い浮かぶ人物が2人いる。ヤマサキセイヤと岡崎体育である。

正直言って私はキュウソも岡崎体育も普段あまり聴かない。キュウソで一番好きな曲はGALAXYだと言ったら「一番キュウソっぽくない曲じゃねーか」とキュウソが好きな友人に怒られたのを覚えている。確かにGALAXYが一番好きというのは最早キュウソが嫌いだと言っているようなものである気がする。

したがってあまり偉そうなことは言えないが、前述の2人は本当にワロタ・草・wwが似合うと思う。ワロタ・草・wwを言うために生きているようにすら思える。最近のことは知らないが、始めは実際にそういう路線で売り出されていた印象だ。ワロタ・草・wwも彼らに使われて本望だろう。私の知るかぎり、この世で最も自然にかっこよくワロタ・草・wwを使えるのは彼らだ。

 

そういうわけで私はワロタ・草・wwを使わない。ヤマサキセイヤ・岡崎体育両氏と比較すると自分なんかにはとても似合わない。これらの言葉を使うには覚悟が足りない。ワロタ・草・wwの似合う人間になるんだ、という覚悟が。

 

 

ではどうしてもワロタ・草・wwを使いたい人はどうすればいいのか。

迷える皆さんのために最後に3つの選択肢を提示しよう。

 

1つ目は自分に磨きをかけることである。

ワロタ・草・wwが似合うような人間になればよいのだ。それはおそらく茨の道であるが、成功した暁には魅惑のワロタ・草・wwライフを手に入れることができる。

 

2つ目はわろたを使うことである。

わろたなら一般人でも使えると個人的には思っている。わろたはワロタよりも幾分かマイルドであり、背伸びをしている感じがない。かくいう私もわろたはときどき使う。ワロタはナシだがわろたはアリではなかろうか。

 

3つ目はすべてを一遍に使うことである。

私のおすすめはこれだ。ワロタ草ww。個々の言葉が持つダサさを一度にすべてを使う斬新さで相殺するのだ。これなら今すぐにでも使えるし、社会を小馬鹿にするニュアンスも残っている。

 

 

予備校の友達にこの話をしたら彼もワロタ草wwを使ってくれるようになった。おそらく今でもワロタ草wwを愛用していることだろう。

あいつは果たして志望校に受かったのだろうか。

足の踏み場が無くならない

 

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これは受験終了時の私の部屋の様子である。

 

汚い。できればこんな部屋には住みたくない。

床には大量の問題集やプリントが散乱しており、写真には少ししか写っていないが洋服もクローゼットに収納されず放置されている。部屋の中央にはコンセントに繋がっていない空気清浄機が設置されており、私の非凡なるインテリアセンスがうかがえる。

こういった部屋はしばしば「足の踏み場も無い部屋」と形容される。

 

 

みなさんは部屋から足の踏み場が無くなるという現象が起こり得ると思うだろうか?

私は起こらないと思う。あくまで「足の踏み場が無くなりそう」なだけで完全に足の踏み場が無くなってしまうことはないと思う。

 

なぜか。その理由はこういった部屋が形成される過程を辿れば簡単に理解できる。今回は私の部屋を例に考えてみよう。

 

本来部屋の床には何も置かれていなかった。掃除機をかけるのだって楽チンだった。この時の足の踏み場は言うまでもなく床全体である。

次第に本棚やファイルから溢れたプリント等が床に放置されてゆく。そして足の踏み場が床から床の一部へと変わる。私はプリントを踏まないように生活をするようになった。

 

そしてついにその時は来た。

床が踏めなくなったのだ。

毎日予備校から配布されるプリント、四季折々変わるテキスト、増え続けるが捨てることのできない模試。

これらを前に私の中で整理という概念は失われ、部屋からは床が消えた。

一見、「足の踏み場も無い部屋」が完成したように思える。

しかしここで非常に興味深い現象が起こった。

足の踏み場が「プリント全体」へと変わったのである。

 

前日まではプリントを踏まないように、微かに見える床だけを踏むように私は生活していた。

しかし、ひとたび踏める床が無くなると前日までは踏まないようにしていたはずのプリントを何のためらいもなく、むしろC判定の模試結果を踏むときなどはある種の快楽すら憶えながら、踏むようになった。そして、前日までは確かに異常で不謹慎であったはずのその状況に私は慣れてしまったのだ。

 

この後は繰り返しである。プリントの中で山ができればプリントの少ない平地部分を踏むようにする。平地部分にもプリントが積もり全体が山となれば、その全てを平地と再解釈しその全てを踏む。

いつまでたっても足の踏み場が無くならない。無くならないから掃除をしない。段階を追うごとに確かに生活としての異常度は上がっているはずなのに、慣れというものがそれを正常な状態であると私に認識させる。

 

お分かりいただけただろうか。

私の部屋は「足の踏み場が無くなりそう」な状態を維持しながらも、遂には完全に足の踏み場が無くなってしまうことは無かったのだ。

 

 

さて、話は現在の私の生活へと移る。

GWに一度実家に帰ってからというもの、どうにも生活リズムが狂っている。

大学の講義を始めてサボり、遅刻も多くなった。自炊を投げ出し、インスタント食品や冷凍食品で食事を済ませることが多くなった。寝る前まで洗い物が残っている日も今週は多かった。夜にしがみつき翌朝から逃げようとすることが多くなった。五月病なのかわからないが心なしか体もだるい気がする。

 

早くもここが踏ん張りどころであるようだ。早過ぎる。

床を踏むことからプリントを踏むことへと慣れてしまったように、今までの健全な生活からこの堕落しつつある生活に慣れてしまってはいけない。これが正常であると空目してはいけない。今一度プリントを捨て、床を踏む生活へと戻らなければならない。

 

本当は5月分のブログは別の記事を挙げるつもりだったが急遽変更した。

まずは来週きちんと講義に出よう。行っても寝るだけ、出る必要は無いと思っても出よう。自炊もしよう。来週は外食ゼロが目標だ。

もし私と同じようにプリントを踏み始めている人がいれば一緒にリセットしよう。大丈夫だ。きっとまだ間に合う。

 

 

日曜日に気分転換として兼ねてから行きたかった海洋堂のフィギュアミュージアムにでも行こうかと思う。大学生活2ヶ月もしないうちに早くも数少ない気分転換のカードを切ってしまうことに多少の抵抗はあるが、まあどうにかなるだろう。

歩道を歩く歩行者、車道を走る自動車

私の実家には最寄り駅が存在しなかった。

「近くの駅」と呼べるものは3つ4つあったが、そのどれもが自転車で20分ほどかかる位置にあった。このことと私の自転車を漕ぐ速度が遅いこととの因果関係は現在調査中である。

 20分というのはすばらしい時間だ。

20分あれば何かについて考えることができるし、20分しかなければ何も考えないでいられる。まさにちょうどいい。そんな毎朝・毎晩の20分により私の思考の約60%が賄われていたといっても過言ではない。

 

 従って、思考の約6割が自転車の上で行われたので自転車について考える時間が多くなるのは必然であり、このブログの記念すべき第1回目の記事が自転車についての記事になることにも異論の挟みようがないのである。

 

 

 

2015年の道路交通法改正により、「自転車は車道を走れ」の考え方が社会にかなり浸透したように思う。遂にはスマホを操作しながらの自転車運転によって死傷者が出るような事故も発生し、自転車に対するストレスはもりもりと膨れ上がっている。

 

 ある日の話。私は自転車を漕いでいた。細めの歩道を走っていた。前におばあさんがいたのでベルを鳴らした。チリーンチリーン、すいませーん通りますよー、という感じで。

おばあさんはこちらを振り返った。少し端に避けて道を譲ってくれるものだと思っていた。しかしおばあさんの顔は曇っていた。「歩道を走ったら駄目でしょ。」という言葉と共に少し小言のような、説教のようなものを頂いた。

あれ以来私の自転車のベルは鳴っていない。

 

改正後の道路交通法には以下のようなことが書かれてある(意訳)。

・自転車が歩道を走るのは原則禁止

・自転車がベルを鳴らすのは原則禁止

他にもあるが今回はこの2つに注目したい。

 

「ある日」が2015年の前だったか後だったかは忘れたが、仮に後だったとすると10:0で私が悪い。歩道も走っていたしベルも鳴らした。正義はおばあさん側にある。にもかかわらず私は正直言って「ある日」に対して不快感と違和感を覚えている。現在までこれを記憶しているほどだ。なぜ自分はこんな人間になってしまったのか。「ある日」についてもう少し掘り下げてみよう。

 

「歩道を走るのは原則禁止」とあるが原則とはいったい何なのか。原則が適用されない場合、すなはち歩道を走ってもよい場合のひとつに「交通状況からやむを得ない場合(意訳)」が挙げられている。

歩道が狭い場所では大抵車道も狭い。「ある日」の場合も例に漏れず、車道にバイクや自転車の走る十分なスペースが存在していなかった。故に歩道を走っていたことに関してはおそらく私はそれほど反省しなくてよいだろう。「ある日」は原則の支配が及ばない領域にある気がする。

実際のところみんなはどれくらい自転車で歩道を走るのだろう。私の場合もちろん車道を走れそうなら走るしできるだけそんな道を通るようにはするが、それでも30%ぐらいは歩道を走る。後ろからバイクが来てるから追い抜いてもらうためにちょっと歩道に上がろう、とかそんなんだ。

要するに車道を走るのが怖いためにこの30%は発生するのだが、先述のとおり車道が狭い場所は大抵歩道も狭い。そういった狭い歩道を自転車が走ったりすると、たとえ短い時間であっても歩行者の自転車に対する印象はあまり良くないのだろうな、と思う。

 

「ベルを鳴らすのは原則禁止」についてはどうだろう。原則が適用されない場合、すなわちベルを鳴らしてよい場合のひとつに「危険を防止するためやむを得ないとき」が挙げられている。

 「ある日」の私は特に危険を感じていなかった。あれは登校中であったし急いでいると言ってもたかが知れている。故にベルを鳴らしたことに関して私は大いに反省するべきである。反省しています。あの場合は一度自転車を降りて小走りでおばあさんを追い抜き、それからまた自転車に乗るのが正解だったように思う。

 

繰り返しになるが、これらを踏まえるに「ある日」の出来事は10:0で私が悪い。

 

 

 

さて、ここからは主観的で感情的な話である。

 

町中でベルが鳴りまくってたあの時代に戻りたい。少なくとも私が小学生の頃は鳴りまくってた。鳴りまくってたは言い過ぎにせよ自転車のベルを鳴らすことに何の抵抗も無かった。歩行者に自分の存在を知らせたいときに鳴らしていた。

いつからか自転車のベルの音を聞かなくなった。自分も含めてみんな黙って歩行者を追い抜くようになった。追い抜かれた歩行者がびっくりしたように顔を上げる。ねえそっちの方が危なくない?そっちの方がストレス溜まらない?

「自転車が歩道を走るのは原則禁止」、大いに結構である。でもどうしても歩道を走ってしまうことがあるのは理解してくれよな。今君は歩行者かもしれないけど自転車側になることもきっとあるだろ?そのときのことを思い出せば、歩道を走っちゃうときもあるの頷けないかな?

「ベルを鳴らすのも原則禁止」、なんで?これいる?普通に鳴らせる方が安全じゃない?

「ある日」は多くの不快感と違和感を以て今も私の頭を回転させている。しつこい男は嫌われるが、生憎気になるあの娘が現れない。

 

 

 

私が今いる町はとても自転車に乗りやすい環境だ。おそらく実家近くは自転車を使うのにあまり適した環境ではなかったのだろう。

新しい自転車を買いに行ったがベルを取り付けずに安く買うという選択肢はまだ無かった。これからこのベルに私の左手親指が掛かることはあるのだろうか。

 

 

《参考》

自転車の交通ルール | 株式会社エコンテ

e-Gov法令検索