足の踏み場が無くならない
これは受験終了時の私の部屋の様子である。
汚い。できればこんな部屋には住みたくない。
床には大量の問題集やプリントが散乱しており、写真には少ししか写っていないが洋服もクローゼットに収納されず放置されている。部屋の中央にはコンセントに繋がっていない空気清浄機が設置されており、私の非凡なるインテリアセンスがうかがえる。
こういった部屋はしばしば「足の踏み場も無い部屋」と形容される。
みなさんは部屋から足の踏み場が無くなるという現象が起こり得ると思うだろうか?
私は起こらないと思う。あくまで「足の踏み場が無くなりそう」なだけで完全に足の踏み場が無くなってしまうことはないと思う。
なぜか。その理由はこういった部屋が形成される過程を辿れば簡単に理解できる。今回は私の部屋を例に考えてみよう。
本来部屋の床には何も置かれていなかった。掃除機をかけるのだって楽チンだった。この時の足の踏み場は言うまでもなく床全体である。
次第に本棚やファイルから溢れたプリント等が床に放置されてゆく。そして足の踏み場が床から床の一部へと変わる。私はプリントを踏まないように生活をするようになった。
そしてついにその時は来た。
床が踏めなくなったのだ。
毎日予備校から配布されるプリント、四季折々変わるテキスト、増え続けるが捨てることのできない模試。
これらを前に私の中で整理という概念は失われ、部屋からは床が消えた。
一見、「足の踏み場も無い部屋」が完成したように思える。
しかしここで非常に興味深い現象が起こった。
足の踏み場が「プリント全体」へと変わったのである。
前日まではプリントを踏まないように、微かに見える床だけを踏むように私は生活していた。
しかし、ひとたび踏める床が無くなると前日までは踏まないようにしていたはずのプリントを何のためらいもなく、むしろC判定の模試結果を踏むときなどはある種の快楽すら憶えながら、踏むようになった。そして、前日までは確かに異常で不謹慎であったはずのその状況に私は慣れてしまったのだ。
この後は繰り返しである。プリントの中で山ができればプリントの少ない平地部分を踏むようにする。平地部分にもプリントが積もり全体が山となれば、その全てを平地と再解釈しその全てを踏む。
いつまでたっても足の踏み場が無くならない。無くならないから掃除をしない。段階を追うごとに確かに生活としての異常度は上がっているはずなのに、慣れというものがそれを正常な状態であると私に認識させる。
お分かりいただけただろうか。
私の部屋は「足の踏み場が無くなりそう」な状態を維持しながらも、遂には完全に足の踏み場が無くなってしまうことは無かったのだ。
さて、話は現在の私の生活へと移る。
GWに一度実家に帰ってからというもの、どうにも生活リズムが狂っている。
大学の講義を始めてサボり、遅刻も多くなった。自炊を投げ出し、インスタント食品や冷凍食品で食事を済ませることが多くなった。寝る前まで洗い物が残っている日も今週は多かった。夜にしがみつき翌朝から逃げようとすることが多くなった。五月病なのかわからないが心なしか体もだるい気がする。
早くもここが踏ん張りどころであるようだ。早過ぎる。
床を踏むことからプリントを踏むことへと慣れてしまったように、今までの健全な生活からこの堕落しつつある生活に慣れてしまってはいけない。これが正常であると空目してはいけない。今一度プリントを捨て、床を踏む生活へと戻らなければならない。
本当は5月分のブログは別の記事を挙げるつもりだったが急遽変更した。
まずは来週きちんと講義に出よう。行っても寝るだけ、出る必要は無いと思っても出よう。自炊もしよう。来週は外食ゼロが目標だ。
もし私と同じようにプリントを踏み始めている人がいれば一緒にリセットしよう。大丈夫だ。きっとまだ間に合う。
日曜日に気分転換として兼ねてから行きたかった海洋堂のフィギュアミュージアムにでも行こうかと思う。大学生活2ヶ月もしないうちに早くも数少ない気分転換のカードを切ってしまうことに多少の抵抗はあるが、まあどうにかなるだろう。